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総合施設長が挑む 専門職の道

2011年3月11日 (1)あの日

来週の水曜日で、あの震災から9年になります。

テレビや雑誌でも、震災関係の特集が増えてきました。

私の身の回りでは幸いなことに被害があった方、物はないのですが、多くの国民がそうであったように、価値観、特に家族や人との関わり方を考える機会になりました。

皆さんはいかがですか?

テレビの中とは言え、よく見かける日本の港街に津波が押し寄せ、家、ビル、船、車、罪がある人ない人、希望がある人、子どもを連れた母親、関係なく連れて行ってしまいました。夜になり海水で満ちた街は炎をあげ、テロップでは日本全国の沿岸が赤く染まり、「大津波警報」と始終点滅を続ける。震度2~3程度の余震はまだ続いていて、恐怖を感じながらも家族には「もう大きいのは来ないだろうけど、注意はして寝よう」と言った記憶があります。

 

当時、江別よりももう少し田舎の町で、私は居宅介護支援事業所の介護支援専門員として働いていました。

いわゆる居宅のケアマネというやつです。

利用者さんの高齢男性から、「ネギいっぱいとれたからよってけ~」とありがたい電話をもらい、ネギをいただく傍ら、様子を伺いに自宅を訪問していました。

確か約束の時間は14時。

外で農作業をしていた奥さんが中に入り、お茶を出していただいて。

夫が、「レンタルしている車いすの調子がおかしいぞ~業者よべ~」といつもの調子で大きい声を出し始め、奥さんと私が苦笑しながらなだめるという、いつもの風景。

14時46分に家が大きい音をたてたかと思うと、突然大揺れしだしました。

とっさに地震だとわかったので、夫婦をテーブルの下に避難させようとしたのですが、夫が「でかい人が家を振ってるんだ、退治してくる」と聞かない。奥さんと協力して引きずり込んで3人でじっと収まるのを待ちました。
息子さんたちが安否確認で駆け付けたので、夫婦を預けた後、急いで事務所まで戻りました。大きい地震だったので、ひょっとしたらけがをした利用者さんがいるかもしれない。家具が壊れたかもしれない。

事務所に戻ると、社長や事務員たちは避難して誰もいない。電話は鳴りっぱなしでした笑。やがて回線がいっぱいになり、電話もならなくなると、余震のミシミシという音が不気味にひびきました。とりあえず他のケアマネージャーたちに、自分の担当をしている人の家をまわり、全員の安否確認をするように指示を出しました。
18時過ぎには全員確認終え、とりあえずけが人や自宅が壊れた人はいませんでした。1名不安を強く訴えていたため、車で2時間のご家族様と連絡を取り、迎えにきてもらう手はずを整え終了。ラジオ等で断続的に「浜辺に数百名が打ち上げられている」「未曽有の大被害」というショックな情報を聞いていたので、とりあえず自分の持ち場は守った安堵感と疲れで、しばらく動けなくなった記憶があります。

私の2011年3月11日の体験はこれくらいです。体験したことのないくらい強い揺れだったので、利用者さんに間違いなく被害が出ていると確信しましたが、本当に不幸中の幸いでした。ただ、東北の被災者たちは、これから長い夜、長い1日、長い避難生活が続くのです。

皆さんにも、それぞれ体験した「あの日」があるのではないでしょうか。今年はコロナウィルスのせいで、追悼儀式等の多くが変更になっていると聞きます。多くの人が集まれなくても、あの日に想いを巡らせて、犠牲者たちの冥福を祈る日にしましょう。